“高崎氏は、電通 田井中邦彦氏の言葉「なんかええなと思った。あとでふり返るとそれは広告だった。それでええねん」を紹介。広告界の中だけで評価しあうことに疑問を投げかけ、「広告は映画や音楽や小説と同じ土壌にある。その中で選ばれたものだけが、メディアや時間を超えて伝わっていく」と語った。「メディアの使い方が珍しいものが広告の未来なのではない。コンテンツの価値をどう作るかにこそ力を注ぐべき。広告がつまらなくなると、広告自体がやせていってしまう」と警鐘を鳴らし、いかに自走していくコンテンツを作るかが今の自分の課題であり、これからのクリエイターに必要なことだと締めくくった。”
“細身で髪の長い女性には、「小雪に似てる」って言っとけば安心だと思ってる自分がいる。”
“昨日の帰りの電車で、背中に「レディーガガ」という付箋を貼られた女性が乗ってた。”
“ 世界中の悩みを一手に引き受けたような顔をして、
ひとつのコピーを書くのに、天井を見つめたり、
公園に出かけて空気を変えようとしたり、
ヒントになりそうな本を虚ろな目で読み出したり、
腕組みして周囲をにらみつけてみたり、
やっていたことがあるんです、ぼくも。”
“佐々木 そう。とにかく大のテレビ好き。バラエティ系好き。紅 白歌合戦とか1回でいいからやってみたい(笑)。ドキュメントものもやりたかったし、ニュースショーなんかも。だから、クリエイティブディレクターになっ て、テレビCMの仕事をするようになって最初は15秒や30秒のCMは短いよ、寂しいよと思っていたんです。2~3時間のスペシャル番組がやりたいぞと。 でも仕事を続ける中で、テレビCMはいろいろな局で何回も流れるとか、制作費の規模だとか、テレビ番組とはまた違ったパワーと魅力もあると発見して。要す るに、サントリーのテレビとか、ソフトバンクのテレビをつくっているんだと。いろいろな会社や商品の宣伝という形でテレビに参加するのは、バラエティに富 んでいてこりゃ面白いやと。それであるとき、「実は結構、広告は俺の天職か…」と気づいた。それからはひたすら広告にはまって、30年。今でもひたすら楽 しい(笑)。
佐藤 今のお話で、佐々木さんのこれまでやってきたことが全部腑に落ちました。宇宙人ジョーンズや白戸家は、放送時間の決まっていないドラマを、サントリーやソフトバンクが提供しているという感じですね。
”
“佐藤可士和 佐々木さんは、僕が社会人1年目のときに、JR東 日本の小泉今日子の広告やフジテレビの「ルール」の仕事で既に活躍されていて。僕にとっては20年以上の間”ずーっと活躍している人”なんです。しかもそ の間、ある意味テレビCMにこだわりつづけている。そこがすごいと思う。
佐々木宏 CMというより、テレビなんだよね。本当はテレビ局 のディレクターになりたかったんだけど、不況でテレビ局の募集がなかったから、電通の「テレビ局」に行こうと思ったんです。でも入ったら新聞雑誌局に配属 されてガクッ。気を取り直して、6年後にクリエイティブに転局して、28歳のときコピーライターになったんです。
”
“ 「たいしたことないやつ」と、
「尊敬に値するやつ」「すげぇやつ」は、両立します。
逆の言い方をすれば、「すげぇやつ」というのは、
同時に「たいしたことないやつ」なのです。
24時間、あらゆる場面で「すげぇやつ」という
演出も、できないわけじゃないでしょうけれど、
それはあくまでも表現行為であってね、
100%「すげぇやつ」なんて幻想でしかないんです。
おまけのように言えば、
「怖い人」だとか「大物」も同じことだと思いますよ。
むろん「エライ人」だとかもね。”
“ ぼくの知っているほとんどの人が、
「たいしたことないやつ」でもあります。
そんなに物語のなかに出てくるような
「たいしたやつ」なんて、いるものじゃないんですよ。
ごくふつうだったり、ちょっと変わっていたり‥‥
だいたい、その程度のものです。
伝説だの神話だのってものを、
山ほど持っている人もいるようですが、
そりゃもうね、ある種のクセだったりサービスですよ。”
“ドナルド・キーンが京都に留学生として下宿していたときのこと。
「或る晩のことです。十五夜で、それはそれはきれいな月の晩でした。私は大学からの
”
帰り途、その月を見上げて惚れ惚れしながら京都の町を歩いておりました。」
キーン博士は思ったのだそうだ。こんな月の光に照らされた竜安寺の石庭はさぞ美しかろう。
是非見てみたい。博士はその足で竜安寺へ向かった。当時(大戦前)の京都の寺はいずこも終日門が開いていて、人の出入りも自由だったという。
「私は竜安寺の門をくぐって本殿に入り、あの有名な石庭を前にした縁側に座り込みました。
月光に照らされた石庭の美しさ。私はしばらく身動きができませんでした。三十分、いえ
小一時間ほども私はぼんやりと庭を眺めていました。もう十分すぎるほど石庭に見惚れた後です。
ふ と傍らへ目をやると同時に私は驚きました。いつの間にか私のそばに、一杯のお茶が置いてあったのです。誰が?いつの間に?どうして?想像するしかないので すが、おそらくお寺の誰かだったのでしょう。外国人の若い学生が石庭に見惚れているのを見て、邪魔をしないように、そうっとお茶を置いていってくれたので す。私は、とても感激しました。」
“ 「ことばの根や幹にあたる部分が、
もっとも大事なのであって、
枝や葉、花や実がなくても、
根さえあれば、そのことばは生きている。
そして、ことばの根にあたるものとは、沈黙である。」
吉本隆明さんの『芸術言語論』を、
ぼくなりに短くして言えば、そういうことになります。”